(株)クロベ・コーポレーション初の保育施設であるランゲージ・ハウス幼稚部は、今年で11年目を迎える。そこで、2022年度を新たなスタートとして、私黑部美子の自己紹介をすることにした。

 東京の板橋区で生まれた。母は寺の長女で、私も横浜に嫁ぐまでは寺の境内で生活した。なんでも母が若いころ肋膜を患ったとかで僧侶だった祖父が心配し、ある寺で葬式の手伝いをしていた父を見つけ結婚させた。父は建築屋だったので婿養子にはできないが、とにかく寺の境内にあった隠居部屋で新婚生活が始まったという。父は広島出身、母は南房総の生まれで漁師のDNAを受け継いだのか勝気である。

私が通った幼稚園は浮間にあった。当時では珍しく園バスを走らせている園だったがバスが浮間橋を渡るたびにビクビクしていたほど弱虫だった。そのせいか友達作りが下手くそで、心配した母は度々園庭で遊んでいる私を確認に来たらしい。いつも砂場の端っこで1人穴掘りをしていた。幼稚園の思い出というのは強く記憶に残っている。担任は青木先生、名前は忘れたがぷっくりとした体格の園長は音楽好きで、運動会でよく使われるクシコスの郵便馬車を全園児に楽器を持たせ演奏させた。

小学校は家から3分のところにある志村第四小学校、中学校は志村第二中学校、高校は王子にあった北高と公立学校で教育を受けた。この高校はすでに廃校になっているがとんでもない学校だった。時はまさに学生運動真っ盛り、全学連の予備軍みたいな高校生が校内にバリケードをはりヘルメット姿でアジ演説をしている。かたやヤンキーと呼ばれる連中はバイクで登校、しかし教師のほとんどが日教組という学校、授業は休講が多く校舎はオンボロで二階の床から下の教室が見えるような状態で危険だから入るなと言われる。仕方なく王子近辺の喫茶店で友人と過ごすことが多く、制服もなく私服だったので、そのままフォークコンサートなどに出かけるような毎日だった。3年生になり進路を決めなくてはならなかったが、毎日ろくに勉強もしていないのでは入れそうな大学がない。おまけに苦労人の父は女子に高等教育は必要なしという考えで母と対立していた。英語は好きではなかったが海外に憧れていたのでキャビンアテンダントの試験でも受けようかと考えたが、同じクラスの男子からお前はブスだからやめたほうがいいと言われ自信損失、諦めた。

クラスに帰国子女が1人いて上智大学を受けるという。どんなところかと聞くと東京の四谷にキャンパスがあるミッションスクールで外国人講師がたくさんいると聞く。担任にここを受けたいと言ったら人生の思い出に受けるのならいいが、99%無理だからやめたほうがいいと言われた。

しかし1%が人生の思い出になるならやってみようかという気持ちになり受験勉強を始めた。父が大の塾嫌いで通わずにいたが、さすがに夏頃になると不安になり代々木ゼミナールの夏期講習に参加した。ここで目からウロコというか受験戦略を学んだ。時は中国との国交回復、世界史を選択して中国にマトを絞る、国語は普段使わない漢字の読み、熟語に専念、問題は英語で150問をいかにこなすかだったが、マークセンテンスという回答選択方式なので運に任せることにした。このマトが全て外れても人生の思い出は作れるからいいということにした。

さて、マトが当たって入学した後が大変だった。英語の授業は全て外国人の神父で言っていることがチンプンカンプン。第3外国語で取ったスペイン語は授業が恐ろしく、退屈なわりには一度欠席するだけで単位が取れない。英語で書かせられるエッセイは毎週で、帰国子女の友人にコーヒーを奢りながら書いてもらいその場をしのいだ。もし誰かに君は大学で何をしていたのかと聞かれたら、ヨット部で青春を謳歌していましたと答えることにしている。大学のクラスで学んだことはほとんどないが、ヨットのレースを通して学んだことがある。それは風を見つけたら迷わず進めということだ。ヨットは風に向かって45度で進んでいく。しかし、この風は一箇所だけではない。船のすぐ近くを見ても見えない風が、遠くの海面に見えたらそこを目指していく。他の船がすぐ近くの風を捕まえていても気にせずに進む。ランゲージ・ハウス幼稚部を設立した時もそんな気持ちだったような気がする。良い風を感じる感性を育み将来に活かしていく、そんな教育をしていきたい。

黑部 美子 インターナショナル・ランゲージ・ハウス CEO

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