
2018年1月に執筆しました。
私が日本語というものが英語では表せない柔軟な表現ができる言語だと教えてもらったのは Lee O-young 『「縮み」志向の日本人』 という韓国人の書いた一冊の本だった。日本文化論の傑作は ルース・ベネディクト『菊と刀』 が有名であるが、この本はトランジスタや果ては折詰弁当まで、大きなものを小さく縮める日本文化の特質を分離していて、その中の一つに石川啄木の『一握の砂』を紹介している。「・・・大海に向かいて一人、七八日泣き止むと・・・・しっとりと涙を吸える砂の玉、涙は重きものにしあるかな・・・」という一節の中に、大海と自分の涙を一つにしてしまう「縮み」の表現力は、日本語が持つ独特の表現力であるとしている。
一時期私はイタリア語に夢中になったことがあり、足繁く九段下にあるイタリア文化会館に通っていが、そこで教えていたイタリア人のほとんどが俳句や短歌に精通していた。私の先生も東大で俳句の研究をしていて、日本語の美しさを切々と説いてくれたが、当時の私にはピンとこなかった。ところが海外で生活するようになってから多くの日本語に精通した外国人に出会い、彼らから目からウロコの話を聞いた。例えばなぜ外国人が日本語を学ぶのかと聞くと「日本語を使って表したい、伝えたいという思いをどう使うのか、適切な表現とは何かを学びたい」というのがほとんどだった。例えば日本人にどうして英語を学んでいるのかと聞くと、「海外に行った時に困らないように」「仕事で英語を使うから」などというのがほとんどだが、外国人が日本語を勉強する時の意識は「私はこう感じ、これをどう伝えたらよくわかってもらえるだろうか。」という表現力の根本から入り、自分が誰に何を伝えたいかという相手意識や目的意識が強い。
つづく
黑部 美子(インターナショナル・ランゲージ・ハウス CEO)
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