幼稚部にてボリウッドダンスクラス中@インターナショナル・ランゲージ・ハウス

2019年6月に執筆しました

先日テレビで中国の若者たちが描く新しい友達像とはというドキュメンタリーを見た。数人の若者たちがレストランで円卓を囲みグラスの代わりに携帯で乾杯をしている。ところがこの乾杯にはカラクリがある。あるアプリケーションを入れると、乾杯してそれぞれの携帯にタッチした瞬間、その人物の好感度が数字で現れる仕組みになっている。一見好感度が高そうな若者が思いの外数値が低く、静かな控えめな子が高い数値を獲得している。しかしである。一度乾杯したぐらいで友達を評価するという発想、それをアプリケーションが具体化するという世の中があっていいのだろうかと心配になる。日本でもSNS上での友達の数を競い合うことがよくあるが、Facebookの友達が10000人いるより、生身で付き合える数人の友達を私は選ぶ。だいたいFacebookで「いいね」を押してくれたら友達という考えそのものが危険と考える。「いいね」がたくさんあるうちはいいが、少なくなると気になる。毎回携帯をチェックする。しないと不安になる。LINEやMessengerなどでの友達付き合いも「書き言葉」の限界を感じる。チャットで友達と意見交換する。しかし相手の顔が見えないのでメッセージを正面からとる。自分の気持ちが安定しているときはポジティブに理解しようとするが、自分の気持ちが落ち込んでいるときの捉え方はネガティブになる。相手の顔が見えていれば、目の動きや口の動かし方などで相手の心を読むことができるが、書き言葉は受ける相手の精神状態により内容の理解が異なる。友達と実際に会って話していると、時として会話が途切れ沈黙状態になることがある。しかしお互いの気持ちが「会う」ということで通じているので、沈黙を許容できる。しかしメッセージは途切れると待つ相手を不安にさせる。SNSでの友達付き合いにストレスを感じている人は多い。確かに遠く離れている友達とのコミュニケーションには大きなメリットがあるが、人と人が付き合うということはメッセージや写真の交換だけでは成り立たない。事実SNSでの友人関係に慣れすぎると、実際の友達との付き合いが億劫になる。時には家族との付き合いすら面倒になる。友達とは人と人が出会い、話し合い、見合い、感じ合うという人間本来の行為で成り立っているものである。携帯文化が及ぼす社会活動への弊害が少なからず取り上げられている。映画のタイトルではないが、Facebook上の友達は「そして誰もいなくなった」が現実として起こる脆いものだということを忘れないでほしい。

黑部 美子(インターナショナル・ランゲージ・ハウス CEO)

このエッセイは、弊社CEO黑部が今まで書いてきたエッセイのアーカイブになります。アーカイブを更にご覧になりたい方は、カテゴリー「ILH History」をご覧ください。

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