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高校時代は英語氷河期だった。英語を教える日本人教師の文法攻めにあい、英語そのものへの興味を失った。句や節など私にとってはどうでもよかった。一体こんな勉強を誰が考えたのかわからないが、将来言語学者になる以外は役に立ちそうもないので勉強をする気にもならなかった。結果英語の成績はひどいものだった。酷いものだったが、英語を話すという興味だけは失せてはいなかったので、友人と帝国ホテルのロビーに座って外国人をナンパしたり、国際貿易コンベンションなどを見つけては出かけて行った。ある時晴海で行われたアメリカンフェスタに行ったら本物のNative Americanが踊っていた。アメリカンフードのプロモーションだった。缶詰やクッキーなど色とりどりのディスプレイと英語の文字に圧倒された。日本の鮭缶やコンビーフ缶とは違って見るからに美味しそうだった。(実際には日本の缶詰の方が美味しいのだが)私は缶詰に英語で書かれたラベルの内容を知りたくて一つ購入すると、しばらくそれが英語の教材となった。
大学生になって打ちのめされた。同じ年でこんなに英語の話せる人たちがいるということだった。クラスの三分の一が帰国子女、そしてミッションスクール出身という小学校から12年間私が受けた英語教育の何倍もの量をこなしていて英語が身体中に充満しているかのようだった。この先4年間一体どうやってこの人たちとクラスを共にしていくかを考えると絶望的な気持ちになった。特に帰国子女達の発音があまりに外国人で顔も日本人なのにどこか違って見えた。
それでも何とか卒業できたのはこの帰国子女達のおかげである。日本語がよろしくない彼女達と試験やレポートでGive and takeの協定を結んだ。結果はまずまずであった。ときには出席の返事までしてくれる良き友には今でも感謝している。彼女達と話しているとちょっと外国にいるような気分になることもあり、英語はさておいて海外生活への憧れが芽生えたのもこの頃かもしれない。
就職活動は英語抜きで行った。なぜか。当時、英語を使った女性の仕事といえば商社が主流だった。しかし、学生時代の成績はそこそこでは到底超えられないハードルだった。負け惜しみではないが商社には興味もなかった。元来事務仕事が嫌いで30分デスクに向かっていると吐きそうになる。まして一日中オフィスで過ごすなどもってのほかである。キャビンアテンダントにも多少憧れはしたが試験がかなり難しいと聞いていたので辞退?させていただいた。結局シンクタンクに入社したが、辞めるときに「久保さんはあの大学出ているのに驚くほど英語ができないんだね。」と言われた。真実である。
それでも私のどこかで海外への憧れは大きくなっていた。仕事を1年半でやめフリーターとしてインチキな翻訳や通訳をやった。インチキというと誤解されるかもしれないが、要するにプロではなかった。しかし英語のニュアンスを取るのは得意で外国人には重宝された。サイマル社からきた女性通訳にあなたの英語はかなりやばいと言われていたが。あちらは時給1万円(当時でさえである)こちらは¥1000だから言われても仕方がない。ただ外国人と一緒に話しているのが楽しかった。
結婚して1年目で海外での生活が始まった。運よくNYという街に住むことになり、そこで英語の楽しさを体から感じていた。なぜなら、そこに住む人はコミュニケーションを何よりも大切なものとし、それが生活の糧にもなっていた。
「楽しい生活を送りたかったら、英語で隣人に声をかけてごらんなさい。そこから全てが始まります。」と教えてくれた人たち。このエッセイのタイトルである【どうして英語に出会ったか?】は「人に出会ったから」と簡単な答えで締めくくる。
黑部 美子(インターナショナル・ランゲージ・ハウス CEO)
